たかひら正明と見つめる岸和田

岸和田市政を中心に、議会や行政の情報公開をし、改善しています。

お忘れかもしれんので、公明がいかに汚い組織かを忘備録として示す。 その2 「密会ビデオ事件」

3. 「密会ビデオ事件」
公明党にとっては、世間から忘却の彼方に去って欲しい事件だろうから、今回はこれだけをテーマとして時系列で書く。
 
 
① 70年頃
学会は以前からヤクザを使ってきた。
1969〜70年頃から静岡県富士宮市にある日蓮正宗の本山、大石寺周辺の土地を買い占め、大本堂建立や「創価学会富士桜自然墓地公園」造成といった総額1千億円に及ぶ大規模事業を進めていた。
この富士宮市を縄張りとする暴力団が、山口組きっての武闘派、後藤組だ。
 
後藤組は楽器あのボディーガード役を担うと共に、土地に関わる巨大利権にまつわるトラブル処理では、最後まで学会に抵抗した人物に対して、後藤組組員がその自宅にブルドーザーで突っ込み、日本刀で片腕を切り落としたほどである(当時の創価学会の顧問弁護士で、学会と後藤氏を繋ぐパイプ役でもあった山崎正氏『懺悔の告発』)。

他にも組長であった後藤忠政(本名・忠正)氏の自叙伝『憚(はばか)りながら』では、
「学会は、大本堂を造る時からデタラメなことをしていたんだ。 大本堂を造る際に、市道を勝手に(市の許可なく)潰したり、農地を不正に取得したりしてな」などとある。
 
しかし、後藤組が介入してもなお、反対運動は鎮静化せず、富士宮市議会では1980年末から、関係者の証人喚問、強制調査、さらには証言拒否や偽証には禁錮や罰金刑を科せる「百条委員会」の設置に向けた動きが始まった。
議会には山崎氏の証人喚問、池田氏に与えていた名誉市民称号の取り消しを求める声も噴出。
窮地に陥った学会は、再び後藤組を頼った。
 
「この間(80年)、山崎は学会 を破門(除名)になって失脚するんだけど、山崎が作った俺とのパイプは生きていて、今度は地元の公明党の連中を通じて(百条委員会を)「何とかして欲しい」という相談があったんだ。それで(百条委員会設置)賛成派の連中に“話”をしたわけだ」
 
この後藤氏の言葉通り、百条委員会は81年春に設置されたものの、公明党などの猛烈な切り崩しにより、何ら機能しないまま同年末に解体され、結果は創価学会の思惑通りとなっている。
 
なお、当初は学会と後藤組の仲介役として山崎氏が動いていたが、同氏が失脚して以降も「地元の公明党の連中を通じて」「相談」があったという。このことから、ヤクザを利用したという罪を山崎氏個人に着せることはできない。
 
② 80年代
百条委問題直後、創価学会と後藤氏の縁はいったん切れる。
後藤氏によれば、学会が後藤組を切り捨てようとしたためで、憤激した後藤氏は竹入義勝公明党委員長、矢野絢也公明党書記長(肩書はいずれも当時)に、2度にわたって内容証明を送付した。
しかし、学会が黙殺したうえ、83年6月に突然、富土宮署に「後藤組潰滅対策本部」が設置されたことから、後藤氏はこれを学会の差し金と見て激怒。
 
85年11月には後藤組系幹部らが創価学会文化会館(東京・信濃町)に発砲し、逮捕される事件が発生する。
後藤氏
「これには池田もビビッただろうな。そりゃそうだわ、行く先々で"パン"って音がするんだから(笑)。 それで慌てて、俺ん ところに池田の使いが飛んできて、詫びを入れてきたんだ」
 
これがキッカケで、創価学会と後藤氏は再び協力関係となり、新たな窓口は、後藤氏のもとへ謝罪に訪れた前述の“池田の使い”となる。
『憚りながら』では注釈として、後藤氏が「X」の正体を一切語ろうとしないとしたうえで、これまでの報道などから、この人物が池田氏の側近中の側近と言われた
「藤井富雄・元公明党東京都議会議員であることは、もはや疑いようのない事実だ」
と付記している。
 
 
③ 90年代
91年に日蓮正宗創価学会を破門し、対立が激化すると、日蓮正宗の総本山・大石寺で発砲事件などが発生。
 
そして密会ビデオ事件、99年の公明 &自民連立政権時代へと続く。
反学会の評論家であった藤原弘達氏の1969年の著書『創価学会を斬る』及び他の創価学会批判本にまつわる「言論出版妨害事件」についての世論の批判を受け、創価学会会長の池田太作氏が謝罪した70年頃、田中角栄氏によって、前述藤原著作によっても、この公明擦り寄りによる連立は予言されていた。
 
 
密会ビデオ事件:
95年12月頃、藤井富雄氏と後藤氏が映った"密会ビデオ"の存在が政界で噂され、これを材料に、与党の自民党96年、住宅金融専門会社不良債権処理のために6850億円の公的資金の投入を審議した住専国会”で新進党を切り崩した事件。
 
藤井氏は池田太作・創価学会名誉会長の側近といわれる東京都議で、後に野中とともに自公連立の牽引車となる人物である。
当時は新進党に合流していない旧公明党参院議員と地方議員を束ねる「公明」初代代表をつとめていた。
その他にも公明党最高顧問、公明党東京都本部顧問などを歴任した、公明党のドンだ。
 
撮影自体は、百条委つぶしが行われた頃になされ、これを自民の野中広務氏や亀井静香氏らが見つけ、公明党を脅し、屈服させた。
 
野中氏は、公明党時代に国対委員長として活躍した権藤恒夫新進党)衆議員の代議士に会い、密会ビデオの存在を知らせる。
 
96年3月6日、権藤氏は、友人であり、小沢一郎の側近でもある平野貞夫新進党)参議員に連絡をし、議員会館の権藤事務所で6千850億円の税金投入に反対する新進党による住専予算の妥協を相談する。
 
国会は破綻した住専住宅金融専門会社)の処理策をめぐって大揺れに揺れていた。小沢が率いる新進党はして2日前に予算委員会室の出入り口で座り込みをはじめたばかりだった。
 
『月刊現代』2004年2月号
―「野中広務『権力20年戦争』」
魚住昭より抜粋
 
「脅かされているので妥協したいということなのですか?」
 平野の問いに権藤が答えた。
 「ことは暴力団がからんだ問題だ。学会も気にしているから放っておけない。このままだと公明系(の新進党議員)がもたなくなるので、何かいい知恵はないだろうか」
 
 平野は権藤と2人で党首の小沢に報告に行った。小沢は、
 「学会が困っているんだから、話し合いをしてやれよ」
と、権藤・野中ラインでの交渉開始を了承したが、
 「条件が2つある。1つは予算を修正すること。もう1つは自民党にも経済構造改革の必要性を分かっている人がいるから、住専問題を機会に改革のきっかけを作ることだ」
と釘を刺した。住専予算をめぐる権藤・野中の水面下の交渉はこうしてはじまった。平野の回想。
 「交渉結果は逐一、権藤さんから報告を受けました。向こう側には野中さんだけでなく(参院自民党幹事長の)村上正邦さんや亀井静香さんもいて、問題を表に出したくなければ住専で妥協しろと言ってきた。でも、小沢党首は予 算案から(6千850億円の)数字を削れと言って譲らない。間に入った権藤さんは学会からもいろいろ言われるから困ってね。そうこうするうちクリントン大統領の来日が迫ってきた。それまでに予算案を衆院通過させなきゃいけないというので、事態はかなり切迫してきたんです」
(抜粋ここまで)
 
 
創価学会野中氏は『老兵は死なず 野中広務全回顧録』で、公明党との連立について、学会が届け出ている資産リストと、聖教グラフに載っている絵画を照らし合わせて、届け出のない絵がいろいろあることを調べあげるなど、叩きに叩いたら擦り寄ってきたのだとする。

また野中氏と亀井氏は、学会の学生部幹部数名が共産党宮本顕治・議長を盗聴していたこと、公明党は選挙のたびに学会施設を使っていることなどを、追及。
このとき学会は、またもヤクザに頼んで、亀井静香を襲撃しようと画策したのだと。
 
 
前述『月刊現代』より抜粋
 当時、自民党の組織広報本部長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井が「命を狙われている」という噂が流れた。まもなくその噂を裏付けるように亀井付きのSPが増員され、亀井の車はつねに警視庁の警備車両2台にはさまれて移動する騒ぎになった。村上正邦の元側近が語る。
 「騒ぎの発端は、藤井さんと後藤組長の密会ビデオでした。亀井さんが入手したそのビデオのなかで、藤井さんは反学会活動をしている亀井さんら4人の名前を挙げ『この人たちはためにならない』という意味のことを言ったというんです。受け取りようでは後藤組長に4人への襲撃を依頼したという意味にもとれる。それで亀井さんと村上、警察関係者、弁護士、私も加わって対策会議が開かれたんです」