たかひら正明と見つめる岸和田

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岸和田探訪(歴史) 「岸和田」との名称の発祥地 岸和田古城

南北朝時代初頭、岸和田駅周辺は「岸」と呼ばれていました。
1334年(建武元年)和泉国守護の楠木正成が、甥の和田高家をこの「岸」に代官として派遣し、城を築き、根拠地としたことから「岸の和田殿」と呼ばれる ようになり、 「岸」の「和田」がなまり「岸和田」の地名の起こりになったといわれています 。

 


岸和田探訪(歴史) 「岸和田」との名称の発祥地 岸和田古城

 

 

古城は、現在の野田町1丁目、岸和田駅の南東側にあり、丘状になっていましたが、現在は丘の上に立っていた石碑を移設し、通称「照日山」と呼ばれていた丘は住宅地となっています。

 

1981年発行の「日本城郭大系・第12巻」によりますと、『現・岸和田城の東側約600mの所に松林の一画があり、その中央に10aばかりの小高い場所がある。中央に「和田氏居城伝説地」の石碑が建てられていて、西側は低地なっている』との記載があることから、数十年前まで丘が残っていたことがわかりますし、近隣に以前からお住いの方々もそう話してくれます。

 

2006年頃、発掘調査が行われ、立入禁止となり、その後住宅地として売られたようです。

 

開発される寸前頃の照日山。
野田町青年団 野田町レポート
noda.cho-chin.com/nodarepo1.html
より

 

 

古城は、現在の岸和田城とは別の位置にあります。
岸和田城は、1954年に図書館として岩出建設によって建造されました。

 

和田家について 太平記では「にぎた」と読まれ、鎌倉~戦国時代にかけて現在の堺市.南区美木多地域を本拠とした武士・和田(みきた )氏。 泉北高速鉄道栂・美木多駅の山側近くには美多弥神社が古くからあり、美木多(みきた)と呼ばれる和田川沿いの地域が、和田氏の本拠地だったと言われています。

 

 

今年、解体されてしまった、岸和田市の近代建築な歴史的財産。 福祉センター分館 http://mitumerukisiwada.seesaa.net/article/455857005.html
でも書いたが、
岸和田高等女学校の校舎として1937年に竣工され、戦後に大阪府立和泉高等学校として使用された歴史的な建物も、2017年末に解体された。

 

歴史的な建築物などをなくしていく方向にある岸和田文化。
ものがなくなれば、歴史そのものも忘れ去られていくのではないでしょうか?

 

遺跡などを観光資源として活かせないかへの模索も必要です。

 

 

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